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川島材木店
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明治の木材史1


 大工の熊さんは、もうすぐお正月も来ようというのに、
畳もかわらず、餅代もない。
貧乏長屋の煎餅布団に横になっていると、
見習いの梅吉がやってきた。
「よう、熊さん。どうしたい。」
「どうもこうもねえよ。出入りのお屋敷が代替わりしてからと
いうもの、仕事がなくて、困ってるんだよ。」
「おお、じゃ、ちょっと旅行としゃれこもうじゃねえか。」
「先立つもんがねえよぅ」
「旅行は旅行でも、時間旅行だ。どれ、ちょっと覗いてみねぇ」
熊さんは梅吉が広げる草紙を覗き込んだ。

1853年、7月8日、神奈川県浦賀沖に、ペリー提督がやって来た。
黒船来航である。
そして、外圧によって、横浜に港が開かれることとなる。
横浜開港は、1859年に結ばれた日米和親条約に基づくものであるが、
その当時の横浜の貿易額は、当時の貿易額の実に80%を占めていた。
現在の横浜港は貿易額で全国3位ということなので、
如何に当時の横浜が、唯一の外国への窓口だったか、が分かる。

横浜開港から遡る事、192年前、吉田勘兵衛が埋め立てた土地、
横浜市の小学生なら、知っている「吉田新田」の埋め立て地が、
横浜村のほとんどだった。

埋め立て地の荒涼とした、言い様によってはのどかな風景が
広がっていたのだった。

開港後、幕府は急激に新しい町作りを進めていった。
誘致政策がとられ、家具などの洋風商売が市中に増えていった。
人口が増える、開発は続く、当時建物はすべて木造、
そういった活況が
横浜に一大木材の需要を引き起こしたのだった。
明治20年頃から、横浜の独占状態はしだいに減ったものの、
まさに明治の横浜バブル、扇子を振っての狂喜乱舞、
まっさらな巨大市場にはルールなし、早い者勝ち、
いざ急げ。右から左への美味しい商売、
「元値と損で蔵が建つ」、われもわれも、
とやくざな希望もあらばこぞ、
腕に覚えのあるものが横浜に向かった。
「横浜に行けば仕事がある」
「横浜で木材を売ると、飛ぶように売れる、横浜の仕事は相場が高い」

誘致政策に名乗りを上げたのは山師たちが多かった。

そのころ、横浜の木材は、筏を組んで、川を輸送していた。
深川木場からの回槽の他、主に多摩川を利用したようである。
筏師、というのは、木材専門の運送業者であり、
川の流れ任せの丸太の輸送は時に危険で死と隣り合わせの分、
粋な職業だったらしい。

この頃は、木材のブランド、天竜産木材、尾州産木材、野州産木材などは
なかなか横浜の木材業者では直接には扱えなかったらしい。

例えて言うと、バブルの時代、ワインで言えば、有名なシャトーのボトルは、
日本商社が直接取り引きで買い漁ろうとしても、ウイとは言って
もらえない、そんな感じだ。
横浜は品のない商売する奴ばかり、と老舗連中はながめていたのかも知れない。ま、最初はそんなのでも良かったんだろう。しかし、長く商売をしようとすると、商道徳があった方が、既得権を守れて楽、としばらくして誰かが気がついて、木材だけでなく、各業種の、「寄合」「組合」が明治20年から40年にかけて、横浜では静かに形成されていった。
(続く)